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映画『天気の子』感想 閉塞感と希望の両立

2019年8月15日

傘を差して佇む男性

※映画のネタバレが含まれます。未視聴の方はご注意下さい。

こんにちは、しょーいです!

遅ればせながら、新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきました。
自分の感想を書き留めておこうと思います。

新海誠監督の作品を視聴するのは本作が初めてです。
世界的大ヒットの前作『君の名は。』さえ視聴していませんので、関連づけた考察等はできていません。ご了承ください(^^;




ヒーローではない主人公

水に浸る標識

主人公・帆高とヒロイン・陽菜の出会いから、3年後。
雨は3年間降り続き、東京の一部は水没したという、衝撃的なエピローグでした。

ヒロイン・陽菜を生け贄にすれば異常気象は収まり、多くの人々には平穏な日常が帰ってくる。
そう確信しながら主人公・帆高は「雨が止まなくとも、自分たちは幸せになる」という選択をしました。

「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」

新海誠『天気の子』

東京900万人の平穏よりも、陽菜と生きることを選んだ。
だから帆高は、主人公だけどヒーローではないんです。誰もが幸せになって終わらない。

帆高を「身勝手で無責任!」と感じた方もいるのではないでしょうか。

ただ、帆高は未熟でも幼稚なりに責任を果たそうという姿勢はありました。

陽菜の弟・凪には「お前が晴れ女なんてやらせるから、姉ちゃんはいなくなったんだ!」とまで言われてますからね。
帆高自身、「陽菜も他人も幸せにできると思ったら、陽菜一人に負担を負わせていた」という後悔があったはず。

誰が痛みを負うのか。それは誰が決めるのか。

本作を見て、私が感じたテーマでした。




人柱で世界は救われるのか?

足を縛る鎖

映画の観客は、陽菜の能力が本物であると知っているからこそ、
「陽菜が巫女の役目を果たせば異常気象は収まる」と思って見ています。

しかも、帆高が警察に追われていることが明らかになってからは、勢いある展開が続きます。映画を見ているだけだと流されてつい、「世界か陽菜か」という二者択一で考えてしまいやすい構造です。

でも、本当に「陽菜を犠牲にすれば異常気象は収まる」のでしょうか?

劇中で、天気の巫女伝説を紹介する神主は帆高の世話をするライター・須賀とその姪・夏美に伝説を語る際、問いかけます。

「観測だと?史上初だと?そりゃ一体いつからの観測だ?」

新海誠『天気の子』

天気の巫女伝説を示す絵が描かれたのは、800年前。
つまり、古来から定期的に誰かが生け贄になって、異常気象を収め続けてきたことが示唆されます。

本作で陽菜を犠牲にすれば3年間の長雨は収まったかもしれません。
ただ、それはそのときだけの話。

可能性を言えばキリがありませんが、次の異常気象が10年経たずにやってくることだってあり得るのです。

その後の異常気象も、そのまた後の異常気象も……延々と犠牲を出し続けるのか?

帆高は”犠牲を一人に負わせ続けない選択をした”と私は解釈しました。

ノリと思いつきで行動しているように描かれているので本人に自覚はないでしょうが。
巫女伝説も知らないし……。

生け贄が知り合いだったなら

繋いだ手
その手を離すことはできるか

帆高は主人公だけに、「利己的」「身勝手」の集中砲火を浴びそうですが、私たちはそのエゴを批判できる立場にいないことを示すのが須賀です。

「人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は大歓迎だけどね」

新海誠『天気の子』

このセリフが、現実を生きる私たちの感覚に近いのではないでしょうか。
一人が犠牲になることで、自分含むその他大勢が救われるなら、それがいいに決まってる。
全体の幸福の最大化を考えます。

ただ、須賀は犠牲になる人、陽菜を知っている。
陽菜を失うことで凪と帆高が不幸になることも気付いている。

数字で考えれば、陽菜が人柱になる方がいい。
でも、それで苦しむ人も確かに存在することを須賀は認識できる立場にいました。

最終的に、須賀は「陽菜を助ける」帆高の決断を支持し、警察に追い詰められた帆高を助けます。
立派に公務執行妨害をやらかして警察に連行されます。
劇中では言及されていませんが、別居する娘の引き取り話も後退してしまったでしょう。

自分の損得を考えれば割に合わない判断をしたのは、若くして死別した妻と陽菜を重ねるところがあったのか、単純に知り合いが犠牲になるのは良心が痛んだからか。

須賀の動機がどちらにせよ、「顔も知らない他人の犠牲は仕方ない、でも自分の知り合いが犠牲になるのは止めたい」という心理は、多かれ少なかれ誰もが持っています。
帆高だけでなく、劇中の人間一人ひとりのエゴを貫いた結果が、水浸しの東京という結果なのだと思いました。

人を”裁かない”強さ

ハンマー

陽菜の救出から3年後、なおも雨は降り続き東京の一部は水没していました。

描かれてはいませんが、1000日以上も雨が降り続けば、土砂災害や水害で亡くなった人も多いはず。
そういう点では、確かに帆高の行動は陽菜一人のために、その他大勢を生け贄にしたようなものです。

帆高は大学進学のために上京、あいさつに須賀の事務所を訪れました。

鎮められるはずの異常気象を放置した帆高は、須賀との会話の中で、「自分と陽菜が世界の形を変えてしまった」と、反省とも後悔ともとれる内容を口にします。

そして表情を曇らせたままの帆高を、須賀は一蹴します。

「んなわけねえだろ、バーカ。自惚れるのも大概にしろよ」

新海誠『天気の子』

この帆高を見て放つ「んなわけねえだろ、バーカ」は、印象的でした。

水害は不幸なことだし、長雨は気分を曇らせるけれど、それを日常として生きていく。
誰かのせいにすることはない。だって、天気はどうしようもないものなんだから。

世界なんて最初から狂ってる。だからお前のせいじゃない。

須賀が陽菜の能力や天気の巫女伝説をどの程度信じているかは不明です。ただ、3年経っても晴れない帆高の迷いを汲んだのは確かです。

ある時点での選択を、後になって「あれが悪かった」「コイツのせいだ」と裁くのは簡単です。事件や事故の当事者にならない外野が好き勝手言う光景は日常にあふれています。

本作でも、帆高が陽菜の命を救った後、3年後に東京は水没しました。
観客は「帆高と陽菜のせいだ」と判断しやすい状況です。
ただ、劇中の人々はそんなことを決して言わない。
一人が犠牲になれば大勢の生活は守られたんだ、とは言わない。

「お前のせいだ」を意味する「自己責任」が盛んに言われる世の中で、ハッキリと「お前のせいじゃない」と言ってやれる人はどれだけいるだろう。
自分は人に言えるだろうか。
エピローグでどんどん胸が抉られていきます。

しかし、これは現実を考えるために必要な痛み。
後味の悪さは、目を背けている現実を見せられるからだと感じました。

「最初から狂っている」と言い切るのは空虚だ

荒れた部屋
狂っていると認識しているなら、正すこともできるはずなのに

後味悪い理由がもう1つ。
ことさらに大人の無能感が強調されているように感じました。

先のシーンで言えば、須賀は「世界なんて最初から狂ってる」と言い、歪さを受け入れて自分と自分の家族や知り合いを守る以上のことはしません。

陽菜のご近所さんも「子どもだけで暮らすのはマズイわよ」と言いながら、陽菜たちのために何をするでもありません。

「狂ってる」「マズイ」という問題意識はあれど、実際には何をするでもなく、狂った世界もマズイ暮らしも追認しているんです。

だって、自分の暮らしには関係ないから。
そんな冷たささえ、現実の反映でしょうか。

ただ、そんな現実を「仕方ないよね」と諦めている印象も受けたのです。

現実は変えられない。
無力感を投影した最たるものが、人間のコントロールが及ばない天気でしょう。

確かに天気は変えられない。
でも、現実の何もかもが天気のように変えられないものではありません。

ボーイ・ミーツ・ガールの物語を描くために余分なところをそぎ落としたのでしょうが、変えられるものさえも、登場人物たちは受容してしまう姿に違和感を覚えました。

本作で言えば、病気で親を失ってからの陽菜と凪の暮らしとか、須賀親子の同居とか、夏美の就活とか。社会制度や行政など人間が作ったものなら人間の行動で変えられます。

変えられないものと、変えられないように思われるものとの切り分けを誤ると、世界に対して行動しない言い訳を生み、思考停止を正当化してしまう。

あくまで主役は帆高と陽菜……とは言え、大人たちが責任を放棄して自分の周りだけの小さな世界に閉じこもっている印象は最後まで拭えませんでした。

現実を変えようとすれば、現状に満足している人との間にいさかいが生じます。
そのいさかいを避けるために、理不尽でも不都合でも受容して生きていく。
言いかえれば、痛みや犠牲の再分配を避け、今痛みを引き受けている人を踏みつけたまま放置して生きていく。
暮らしを守る知恵と言えば聞こえは良いですが。

そんな社会のギスギス感までありありと映し出してくれました。

まとめ:心一つで変えられるものも多い

雲と空
良い天気だけが心を晴らすわけじゃない

天気のように”変えられないもの”が強調され、大人の諦念が描かれる本作。
現実社会の閉塞感とも相通じるものがあります。

ですが、心一つ、行動一つで”変えられないもの”すら変えてしまう力だって、私たちは持っていることも同時に描かれています。

例えば、「天気はただの空模様なのに、人の心を変えてしまう」と帆高は語りますが、逆に心次第で良い天気にも悪い天気にも感じられます。

運動が苦手な子なら、晴天よりも雨続きで運動会が順延・中止になる方がよっぽど嬉しく、その雨は心癒やすものになります。
誕生日にしんしんと雪が降れば、天からの祝福に思えます。
(どちらも私の経験による)

平たく言ってしまえば”気の持ちよう”ですが、案外バカにできません。

現実に対して「変えられない」と思えば変える気力なんて湧いてくるはずもありませんが、「変えられるかもしれない」「この点は変えられる」と思えば実際の行動も見えてきます。

劇中、帆高が一度は失った陽菜を「もう一度会いたいんだ!」の一念で取り戻すのが、その象徴だと思います。

陽菜の失踪って、本来は神隠しに遭ったようなものじゃないですか。
そんな人知の及ばない「変えられない」はずの現象を、帆高は変えてしまった。
まぁ、その行為の善悪はさておき……。

『天気の子』は、理不尽な現実とそれを受容する人間を描くと同時に、無力感を払う希望もきちんと見せてくれました。







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