こんにちは、しょーいです!
今日はネタ出しに悩んだあげく、何も出ないまま書きはじめています。
しかし読者のお時間をいただく以上、何かしらの意味ある記事にはしたいと思います。
「なぜ記事にするネタがでないのか」
公開20分反省会を開催いたします!
見ることと観察することとの隔たり
物事は毎日同じように見えて、毎日変化しています。
こうしてキーボードを叩く私の指も、細胞レベルで見れば昨日と異なる細胞が叩いているわけです。
毎朝見る子どもの寝顔も
「ああ、今日もかわいい」
と思いきや、そのかわいさは昨日と今日で異なっているはずなのです。
でも、私たちは往々にして昨日と今日とその先を同じもののように考えてしまう。
同じように見えるのは、同じように見ているからとも言えるのです。
「みる」という字の多様さ
ところで、「みる」と読む漢字には4種類あるのをご存知でしょうか?
以下、『漢字の使い分け辞典』学研より引用です。
- 見る:目で存在を確認する。物事をとらえる。一般的に広く「みる」。
- 看る:世話をする。看病する。
- 診る:診察する。
- 観る:遠くからよくみる。ぐるりと見渡す。
これらに共通するのは、目で見るだけでは不十分という点です。
(存在確認はともかくとして)
物事をとらえるには、紙に書き出したり身体を動かす体験が有効です。
世話や看病にも、「手当て」というように熱を測るときには手を当てますし、食事の補助には相手が食べやすくなるための工夫も欠かせません。
診察は言わずもがな。医師は患者の見た目だけでなく、訴えを聞いて検査をします。
遠くのものをよくみようと思えば、自然と身を乗り出しますよね。
つまり、正しく「みる」には目だけでなく感覚すべて総動員する必要があります。
「みる」にも訓練が必要だ
私たちの脳は省エネ大好き。”ほぼ”昨日と同じなら、昨日の再現で見たことにできてしまいます。
ネタが出ないのは、省エネしているから。
日々の変化をとらえきれないほど、感覚が寝ているから。
「みる」感覚を呼び起こすために、私は花を飾ることにしました。
長持ちさせようと思えば、手入れで必然的に毎日「みる」ことになりますから。
参考図書